自警団(民防)の基準を「読み書きができる程度」にまで引き下げることは、単なる人手不足の問題ではない。むしろ一手の“策”に見える。すなわち、抑圧の担い手を大衆化し――法を最も理解していない層を狙って――最も荒々しい「延長された腕」に仕立てることだ。なぜ「文字が読める」だけでいいのか。署名し、命令を受け取り、スローガンを読むには足りる。しかし問い返すには足りない、という計算がある。
文化水準の低い組織は命令しやすく、反論しにくい。上からの指示は真理となり、正しいか間違っているかは「やるか、やらないか」にまで単純化される。次に出てくるのが「住民で住民を統治する」という手口だ。地元の人間は路地も家々も知り尽くしている。その彼らが制服をまとえば、生活のすぐ傍で張り付く「監視役」になってしまう。法を理解しない者の手に棍棒が握られたとき、危険は倍増する。そして住民の恐怖もまた増す――恣意性への恐れ、「治安」を装った“ジャングルの掟”への恐れである。
読み書きがやっとの人間に強制権限を与えることは、認識が追いついていない者に武器を渡すのと大差ない。秩序を守るどころか、彼らは新たな「土豪(地元の権力者)」となり、勝手な規則をでっち上げて住民を押さえつけかねない。「棍棒が王座に就く時代」では、文字の力が低いほど、棍棒の価値が上がる。











